2013年9月25日水曜日

あなたも主人公ですか。

半沢直樹

倍返し


流行ったな−っていう印象。

ドラマなり漫画なりストーリー性のあるものすべてみんな主人公の視点でものを見てる。

これ結構不思議に思える。

正義の立場になってストーリーをとらえてる。

リアルの世界では悪役なのにドラマの中では正義に自分を映しだしている。
いや、あんたはリアルで悪役なのになんでドラマでは主人公になりきり正義感に浸ってしまうのか。



いじめを題材にしたドラマだと必ずといっていいほど、いじめられてる側の話でストーリーが展開される。
すべての人がそちらがわからストーリーを楽しむ。

なにわともあれ基本的に人ってのは物語の主人公でありたいってことなんですよねぇ。
欺瞞に満ちているますね完全に。

でもなぜかひとりひとりが主人公のはずなのに調和がとれてしまうことがある。
脇役が主人公の物語。スピンオフ。

そうかつまりそういうことか。
それぞれにハマり役があるってことか。


ハマり役って自分がこうしたいっていうよりも、この環境であればこう自分なら振る舞うっていう考えの先に構築されていくものなんでしょう。

自分のはまり役ってのも環境によって左右されてくるなぁとひしひし感じてるくる秋の夜長でございました。

2013年1月4日金曜日

その気にさせるTV

最近のテレビ番組の状況といえば、
・食べ物レポート
・旅番組
などをよく目にする。
人々が日常の中で経験することを芸能人が体験し現場を伝える。
このありきたりな番組が長寿番組となっておりかつ制作費も人件費と取材費くらいで
多くはかからない。

自分も同様の行動をとることを容易に想像できるテレビ番組が長寿番組として形を変えて残っている。逆に自分にはできないことを見せびらかすような番組は長続きしない。

 かの上岡龍太郎はいった。
素人が芸をするか、芸人が私生活を見せるかのこの2つに1つと
これはまさしく今のテレビの状況をついている。

2011年10月6日木曜日

無思考がもたらす快楽

社会人になってから半年が過ぎた。

特に何も変わらない。もしかしたら忙しいのかもしれないけれども想定していたよりも全然忙しくはない。

それがなんだか不思議で仕方がない。

なにせ僕の中で社会人ってのはある意味ゴールで、その社会人というものを全うすれば、ある程度のものが手に入ると思っていたから。
その割に楽ではないか。

勝手なイメージで毎日、上司に呼び出しされ飲み会に連れていかれ、終電で帰るというような社会人生活をイメージしていた。

そんなことは全く無くて、意外なまでに平穏な日々を送っている。

このままでいいのだろうか。

そんなことを考えたりはするのだけれど、このままに続けていけば、生活はできるし、きつくもないし、適度に仕事していれば評価もされる。

ある意味で居心地はいいのかもしれない。

しかし、このまま安住するようなタイプではないので、そろそろ動き出そうかなと思っている。

働いているとなぜここはこう改善しないのかという点がたくさんある。
改善したほうがいいのにという思いを抱いたまま月日が経つと慣れてきて、改善べきと考えていたものが気にならなくなってくる。
考える必要がなくなってくることに対する恐怖を強く感じる。
そんな延長線の方々がたくさんいらっしゃるということだ。

流されずに自分を持ちつづけたいね。

社会人の諸先輩方からアドバイスをいただきますが、大抵の場合あんたみたいに俺はなりたくないからアドバイスなんてされたくありませんよって話なわけで・・・

それなりの生活水準は簡単に手に入る世の中なんだよって。もしかしたら、何か自分のしたこととか考えずに社畜イエーイ☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイなのりでやってれば楽なのかもしれない。




2011年5月9日月曜日

たまの革新的な出来事

同期との出会い

まずは一ヶ月とプラス四日の研修を一緒に終えたメンバーに感謝を述べたい。


ありがとう。


さて、今回の研修では大変いろいろなころが起こった。


私は22年間生きているので、この人は会う合わないとかの判断軸をすでに持っていた。


それが覆されたのである。 

こいつ合わないわーって思っていたようなタイプの人と自分を高め会合うことができたということだ。


とこんなことを書くと学生のmixiの日記みたいな文章になってしまう。

いつもそんな文章だから全然関係ないか。


人間には脳のデータベースがあるわけで、年齢を重ねるごとにデータベースにどんどんデータが蓄積されていくのです。それはどうなっていくのかというと、新しいサンプルに出会ったときに、良し悪しを判断する機能がどんどん強化されてるということです。



でもここに大きな落とし穴が・・・

すでに持っているデータベースに当てはめて考えるとそのデータベースが判断材料になってしまうので、新種のタイプに合ったときに対応できない。


それって問題ありすぎですね。


つまりは自分がすでに持っている判断軸で評価して何も受け入れなくなってしまいます。


それではなんの進歩がない。

自分にとって同質のものが周りに集まる状況をただ生むだけなのです。



何が言いたいかというと、フィルターを外してまず受け入れることからはじめるべきだということです。

それが自分の成長につながるはずなのです。


おそらくそうすることで後悔をすることも少なくなるでしょう。


過去のことに後悔することがあるかもしれないけど。こうすればよかったーっていう後悔よりもこの手があったのか!!って後悔のどちらの念が強いか判断できませんから。

2011年2月11日金曜日

卒論を終えての感想をつらつらと。

卒業論文の発表会を終えましたー
提出書類全部出しましたー
これで晴れて卒業できます。先生ももう既に成績をつけられてたそうで、卒業できることができます。
なにか問題を起こさなければという条件は常についてまわりますけど。

学業の集大成という形で卒論を書いたわけですけど、これでよかったのかという後悔の念と
卒業論文、卒業研究が有意味であるのか?という疑念が湧いてきました。

僕が所属する総合政策学部の卒業論文のテーマは多岐にわたりますが、そのほとんどは専門性は高くないものばかりです。
専門性がないというのは一つの学問を掘り下げたわけではなく、様々な学問分野に関連する研究になっているということです。

総合政策的であるということもできますが、何の意味があるのか?
専門的に研究せずして何が生み出されるのか?
専門性は問題を打破する鍵になるはずです。

いくつか卒業研究の発表会を聞いていましたが、専門性があるのにも関わらず表層的に扱って安易な結論を導き出しているという印象を受けました。

何故そのサンプルを選んだのか?
サンプル数が少なくないか?
データから導き出せない結論を導きだしてはいないか?

つっこみどころ満載でした。

総合政策学部の特徴として、いろいろな専攻の先生がたがいらっしゃいます。
そのため自分の関心のある分野で勉強ができる。しかも表層的に。
自分で問題を設定して、問題を分析し、解決策を提示する。
分析をする際には何らかの専門的な勉強をしていないと、その分野の研究をしていない人でも提示できるような解決策しか提示できないでしょう。

結論として、何らかの専門性がないと問題は解決できないし、そもそも研究にさえならないですよ。ってことです。


じゃあ、何ができたのかを今問い直してみる。
やれることをやる。行動するということだったのかと思います。
専門性がないのであれば行動で示すということです。
今、自分が社会に対して創造できる価値を提供する過程を卒業研究にしてもいいのではないかと思います。
実際行動の影が見えたものがなかったですからね。

自分の研究論文に関して、多大な反省があります。
得たことがないと言えば嘘になります。
この論文を書いたことで誰かのためになったかと聞かれたら、自分のためにしかなってませんと答えるしかないでしょう。

2011年1月2日日曜日

あけました!!

2011年を迎えました。

本年もよろしくお願い申し上げます。

どんな年になるのか、

どんな年に自分はするのか。

楽しみで仕方ありません。

2010年11月19日金曜日

就活生による社会人神格化現象

就活生にとって社会人はどんな対象なの?

社会人は
早寝早起
何事も他人のせいにはせず、全て自己責任
仕事が最優先で、自分の仕事に社会性を見出している。
常に成長し続けている。

みたいな意味わからんイメージを持たれているんではないでしょうか?
『社会人とお話しできた!』 とか本当に大丈夫かって思ってしまいますね。


社会人みんなすごい大人であるならもっと世の中よくなってるはずだからね。
これは留意しておかなきゃね。

2010年10月3日日曜日

流行り

大学生でボランティア活動に従事している人が多いみたいですね。
素晴らしい!
なかなかできないことですよ!!

と言っても大学生がああいう活動をするのを甚だ疑問視しています。
別に動機なんか個人的にはどうでもいいと思っています。
出会いを求める、就活のためのアピールポイントのために、奨学金の募集要件でボランティアがあるから。
なんでもありでしょう!

でも大学生がやるべきことってのは要望があってただ無償労働を提供することじゃないでしょう。
やるべきことをあげるとするならば、
①ボランティアではなく継続的に活動が続くためにどうやったらビジネス化できるか考える。
②ボランティアが必要とされないような社会システムを構築する。

こういったことじゃないでしょうか?

ある友人は「困った人に手を差し伸べるためにボランティアをしています」と言っていました。
おそらくボランティアしている時間をバイトして稼いだ金を寄付した方が困った人は万々歳だよね。

ボランティアっていうのはとりあえず正しいこと。
誰も損をしないですから!(ボランティア活動を提供している人にとって損だとみなすことができるだろうけどね・・・)

目的は何ですか?
ボランティアすることが目的になっていませんか?
困っている人に手を差し伸べるのはボランティアじゃないとできないのですか?
ボランティアはすぐ取り組めるからいいと思っているのですか?構造的な問題で捉えたことはありますか?


やらない善よりやる偽善って言うのがボランティアの本質なのでしょう。
ボランティアは誰がやるべき?時間がある大学生?

社会の歪を修正する無償労働活動が社会の中で一番余暇時間があると思われる大学生によって提供されている現状。

ビジネス化できたNPOなりNGOの活動は面白いと思うんだな。
補助金獲得、税金対策し易いからあまり称賛はできないんですけどね。

それでは!

2010年9月13日月曜日

ありますか?政策立案能力

政策立案が流行っているみたいで・・・

これはすごくいい傾向だと思います!!みんながみんなどうやったら世の中よくなるんじゃ~ボケって考えているということだから。

最近思うことがあります。

それは、大学生って政策立案能力はないんじゃね?ってこと。

あるとするならば、政策分析能力とか政策評価能力くらいなもんだと思う。

政策立案能力ってのはある条件を与えられてその中で発生している問題に対しての解決策を練る力のこと。

知識人が解決策をいくつか挙げてその中でどれがいいかを選別する力(=政策分析能力とか、政策評価能力の方に該当する方)はあるでしょう。

そこで終わってしまっている。もちろん僕も政策立案能力はありません。

政策立案能力を得るには大きな壁があるようです。

その壁を打破できないのはなぜでしょうか?

それは、

①政策立案するよりも一般市民にとって大事なのは政策を分析する能力だから。

②教育現場でそこまでの能力を鍛え上げることは難しいから。

大きな理由は上記の二点だと思います!!

実際市民が政策立案能力を持ちうると不利益を被る層が存在してますね。

既得権益を持っている層です。

政治家であったり、官僚であったりここには自治体職員なんかも入ってくるかもね。

いや~これは実にもったいない。

三人寄れば文殊の知恵じゃないですけどね!

コンセンサス会議という手法がありますが、あれは

妥協策でしょう。市民の声とりいれる格好をみせることは非常に重要。政治とか政策の分野に意見が言えた~(^◇^)やった~っていう層は多いでしょうからね。

現状として、政策立案者は市民ではない。

これが誰にどのようなメリット(あるいはデメリット)があるのかを考えることが大切でしょう。

政策立案者≠市民→これは市民にとっては不利益です。

それでは!!


2010年9月4日土曜日

運命は反証不可能

出会えたことは運命。

運命は反証不可能で、何が運命で何が運命でないか判断できない。
今日ラーメン食べたことは運命かもしれないし、
生涯愛する人と出会ったことが運命でないかもしれない。

それは間違いないはずなんだけど、
この人は自分で運命変えたなって思えるような人生をあゆんでいる人っているよね。
貧しい階級から最終的に天下統一とか、高等教育を受けずに最終的に一国の首相になっちゃったり(誰のことおを書いてあるかバレバレな感じが好きです)

努力。
これは運命論では語れない唯一のものなんでしょう。
運命論信者は努力するのも運命って言うんでしょうけどね。
これは運命って感じるのって非常に嬉しいことでしょう。
奇跡的なめぐり合わせを運命として、気分を盛り上げるのは素晴らしいことだと思います。
でもなんかその運命ってのが予め決められてるかのようで私は嫌いなんです。
出会ったことが運命って言うのに、今日ラーメン食ったことは運命じゃないなんてことも反証できないですから。

ここに面白さがあると思います。
反証できないけど、自分の努力で運命を導く可能性があるということだから。
何をするのも運命なんですよ、努力するのも、しないのも。
そしたら、客観的にみてこの人は自分の力で運命変えたなって思ってもらえばいいわけです。
そしたら、運命は反証不可能でも事実として運命変えたとして認識されることができる。
努力のし甲斐があるってことですね。

まあ、運命論信者は、客観的に運命を変えたと思われるような行動をしたことも運命と言い切るのでしょうが・・・