2011年10月6日木曜日
無思考がもたらす快楽
社会人になってから半年が過ぎた。
特に何も変わらない。もしかしたら忙しいのかもしれないけれども想定していたよりも全然忙しくはない。
それがなんだか不思議で仕方がない。
なにせ僕の中で社会人ってのはある意味ゴールで、その社会人というものを全うすれば、ある程度のものが手に入ると思っていたから。
その割に楽ではないか。
勝手なイメージで毎日、上司に呼び出しされ飲み会に連れていかれ、終電で帰るというような社会人生活をイメージしていた。
そんなことは全く無くて、意外なまでに平穏な日々を送っている。
このままでいいのだろうか。
そんなことを考えたりはするのだけれど、このままに続けていけば、生活はできるし、きつくもないし、適度に仕事していれば評価もされる。
ある意味で居心地はいいのかもしれない。
しかし、このまま安住するようなタイプではないので、そろそろ動き出そうかなと思っている。
働いているとなぜここはこう改善しないのかという点がたくさんある。
改善したほうがいいのにという思いを抱いたまま月日が経つと慣れてきて、改善べきと考えていたものが気にならなくなってくる。
考える必要がなくなってくることに対する恐怖を強く感じる。
そんな延長線の方々がたくさんいらっしゃるということだ。
流されずに自分を持ちつづけたいね。
社会人の諸先輩方からアドバイスをいただきますが、大抵の場合あんたみたいに俺はなりたくないからアドバイスなんてされたくありませんよって話なわけで・・・
それなりの生活水準は簡単に手に入る世の中なんだよって。もしかしたら、何か自分のしたこととか考えずに社畜イエーイ☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイなのりでやってれば楽なのかもしれない。
2011年5月9日月曜日
たまの革新的な出来事
同期との出会い
まずは一ヶ月とプラス四日の研修を一緒に終えたメンバーに感謝を述べたい。
ありがとう。
さて、今回の研修では大変いろいろなころが起こった。
私は22年間生きているので、この人は会う合わないとかの判断軸をすでに持っていた。
それが覆されたのである。
こいつ合わないわーって思っていたようなタイプの人と自分を高め会合うことができたということだ。
とこんなことを書くと学生のmixiの日記みたいな文章になってしまう。
いつもそんな文章だから全然関係ないか。
人間には脳のデータベースがあるわけで、年齢を重ねるごとにデータベースにどんどんデータが蓄積されていくのです。それはどうなっていくのかというと、新しいサンプルに出会ったときに、良し悪しを判断する機能がどんどん強化されてるということです。
でもここに大きな落とし穴が・・・
すでに持っているデータベースに当てはめて考えるとそのデータベースが判断材料になってしまうので、新種のタイプに合ったときに対応できない。
それって問題ありすぎですね。
つまりは自分がすでに持っている判断軸で評価して何も受け入れなくなってしまいます。
それではなんの進歩がない。
自分にとって同質のものが周りに集まる状況をただ生むだけなのです。
何が言いたいかというと、フィルターを外してまず受け入れることからはじめるべきだということです。
それが自分の成長につながるはずなのです。
おそらくそうすることで後悔をすることも少なくなるでしょう。
過去のことに後悔することがあるかもしれないけど。こうすればよかったーっていう後悔よりもこの手があったのか!!って後悔のどちらの念が強いか判断できませんから。
2011年2月11日金曜日
卒論を終えての感想をつらつらと。
卒業論文の発表会を終えましたー
提出書類全部出しましたー
これで晴れて卒業できます。先生ももう既に成績をつけられてたそうで、卒業できることができます。
なにか問題を起こさなければという条件は常についてまわりますけど。
学業の集大成という形で卒論を書いたわけですけど、これでよかったのかという後悔の念と
卒業論文、卒業研究が有意味であるのか?という疑念が湧いてきました。
僕が所属する総合政策学部の卒業論文のテーマは多岐にわたりますが、そのほとんどは専門性は高くないものばかりです。
専門性がないというのは一つの学問を掘り下げたわけではなく、様々な学問分野に関連する研究になっているということです。
総合政策的であるということもできますが、何の意味があるのか?
専門的に研究せずして何が生み出されるのか?
専門性は問題を打破する鍵になるはずです。
いくつか卒業研究の発表会を聞いていましたが、専門性があるのにも関わらず表層的に扱って安易な結論を導き出しているという印象を受けました。
何故そのサンプルを選んだのか?
サンプル数が少なくないか?
データから導き出せない結論を導きだしてはいないか?
つっこみどころ満載でした。
総合政策学部の特徴として、いろいろな専攻の先生がたがいらっしゃいます。
そのため自分の関心のある分野で勉強ができる。しかも表層的に。
自分で問題を設定して、問題を分析し、解決策を提示する。
分析をする際には何らかの専門的な勉強をしていないと、その分野の研究をしていない人でも提示できるような解決策しか提示できないでしょう。
結論として、何らかの専門性がないと問題は解決できないし、そもそも研究にさえならないですよ。ってことです。
じゃあ、何ができたのかを今問い直してみる。
やれることをやる。行動するということだったのかと思います。
専門性がないのであれば行動で示すということです。
今、自分が社会に対して創造できる価値を提供する過程を卒業研究にしてもいいのではないかと思います。
実際行動の影が見えたものがなかったですからね。
自分の研究論文に関して、多大な反省があります。
得たことがないと言えば嘘になります。
この論文を書いたことで誰かのためになったかと聞かれたら、自分のためにしかなってませんと答えるしかないでしょう。
。
2011年1月2日日曜日
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